表門(一の門)
久保田城本丸の正門であり、二の丸売店脇の長坂を上がった先に位置していました。この門は本丸の玄関口であり、警備上でも非常に重要な場所でした。
南側には門の警備を担当する「御番頭局」があり、門の下には侵入者を警戒する「御物頭御番所」が置かれ、厳重な守りが固められていました。
現在の表門は、平成11年から2年の計画で再建されました。再建には絵図や文献資料、発掘調査の成果が活用され、木造2階建ての櫓門で、瓦葺きの屋根が特徴です。20万5千8百石の城に相応しい壮大な門が再現されています。
構造としては、1階が四方から吹き降ろす屋根で、2階が真壁造りの入母屋屋根で、桟瓦が葺かれています。
建築には、1階部分には主にケヤキ材が使用されており(鑑柱や冠木は約250年の材齢)、1階部分の外側には主にヒバ材が使用されています。
表門は夜間にライトアップされ、日没から日の出まで美しく照らされます。
御物頭御番所
久保田城内に現存する唯一の藩政時代の役所建物です。建築年代は宝暦8年(1758年)から安永7年(1778年)の間に建てられたと推定されています。
この建物は、久保田城内のニノ門(長坂門)の開閉や城下の警備、火災消火などを担当していた物頭(足軽の組頭)の詰所でした。
久保田城 概要
久保田城は、佐竹氏の居城であり、別名として矢留城や葛根城とも呼ばれていました。江戸時代後期から明治時代の公式文書では「秋田城」とも記されることがありましたが、古代の秋田城とは別の城であり、現在は「千秋公園(久保田城跡)」という名称が使用されています。なお、松下門や黒門の木造復元計画も進行中です。
久保田城は、旭川の左岸に位置する神明山(標高40メートル)に平山城として築かれました。城内には石垣がほとんど存在せず、代わりに土塁(鉢巻土手)が築かれていました。
また、天守は存在せず、「出し御書院」と呼ばれる櫓座敷や他の8棟の櫓が建てられていました。
久保田城は山川沼沢を巧みに利用した防御構造を持ち、西国の城の様式も取り入れられていました。
天守については寛永10年(1633年)の火災以前には「御三階櫓」があったとの説もありますが、確証は得られていません。
1880年(明治13年)の大火で城内の建造物はほぼ焼失し、市街再建の過程で堀も埋め立てられ、現在の千秋公園が整備されました。
久保田城の本丸・二の丸一帯は千秋公園となり、三の丸にはあきた芸術劇場ミルハスや秋田市立中央図書館明徳館、秋田市文化創造館などが建てられました。
久保田城の建造物としては、御物頭御番所が現存しており、市の有形文化財に指定されています。また、本丸新兵隅櫓(御隅櫓)や本丸表門も再建されています。
沿革
江戸時代以前
神明山には安東氏(秋田氏)の配下である三浦氏(川尻氏)が居を構え、総社大明神・神明宮・別宮攝末社の氏神として祭られていました。三浦氏の城は「鎗留ノ城」または「矢留ノ城」と呼ばれ、久保田城の別名にもなっています。
また、神明山の名も神明宮に由来します。さらに古くは、山の頂に大嶽山・小嶽山・光明山の3つの山があり、それが「三森山」または「三嶽山」と呼ばれていました。
江戸時代
1602年(慶長7年)9月17日、久保田藩 初代藩主の佐竹義宣が秋田氏の居城であった湊城に入城しました。佐竹氏は54万石の領地を抱えており、秋田氏の5万石(蔵入地2万5000石)の城では手狭でした。湊城は防衛に向かなかったため、久保田城築城の理由となりました。
1603年(慶長8年)5月、新城の築城が始まりました。同時に城下町と主要道路の整備も行われました。
1604年(慶長9年)8月28日には窪田城の本丸が完成し、湊城は破却されました。周辺の主要道路も完成しました。
1607年(慶長12年)には内町の町割が始まり、三の丸と中通廓が新設されました。
1619年(元和5年)には内町の町割が拡充され、亀ノ町廓が新設されました。
1629年(寛永6年)にはさらに内町の町割が進み、楢山・保戸野・手形・川口の侍町が新設されました。
1631年(寛永8年)には道路の整備が行われ、街道の経路が変更されました。
1633年(寛永10年)9月21日には本丸が全焼し、藩主は仮殿として別の場所を使用しました。
1635年(寛永12年)12月15日には修築が行われました。
1647年(正保4年)には「久保田城」という名称が初めて使用されました。
1671年(寛文11年)から1699年(元禄12年)までは城下町に変化はありませんでした。
1776年(安永5年)4月2日には大火があり、多くの建物が焼失しました。
1778年(安永7年)にも本丸が全焼し、仮殿として別の場所を使用しました。
1781年(天明元年)には本丸御殿が修築されました。
1788年(天明8年)には焼失していた御用局が復旧されました。
1797年(寛政9年)5月10日には再び出火があり、多くの建物が焼失しました。
近代
1868年(明治元年)には戊辰戦争が起こりましたが、久保田藩は新政府軍を支持したため、庄内藩や盛岡藩から攻撃を受けました(秋田戦争)。領内の大半が戦場となりましたが、庄内藩が撤退したため、久保田城は戦禍を免れました。
1869年(明治2年)7月25日、版籍奉還により久保田城の所在地は陸軍省(後に陸軍省)の管轄となりました。
1870年(明治3年)には藩庁が移転されました。
1871年(明治4年)3月3日、久保田藩は秋田藩に、久保田城下町は秋田町に改称されました。
1871年(明治4年)8月29日、廃藩置県が行われました。
1872年(明治5年)4月20日、秋田県庁が本丸に開庁されましたが、後に移転しました。
1873年(明治6年)1月14日、久保田城は存城処分となりました。
1880年(明治13年)7月21日、城内の建物がほぼ全焼する大火が起こりました。
現代
1984年(昭和59年)、佐竹宗家第35代である佐竹義栄の遺志に従い、公園用地(約14.6ha)が佐竹家から秋田市に寄贈されました。
1989年(平成元年)、本丸新兵具隅櫓が模擬的に復興されました。
1990年(平成2年)4月10日、御物頭御番所が秋田市によって有形文化財に指定されました。
2001年(平成13年)、本丸表門が木造で復元されました。
2004年(平成16年)、秋田市建都四百年記念祭が開催されました。
2006年(平成18年)4月6日、久保田城は日本100名城に選定されました。
2008年(平成20年)3月25日、秋田市によって名勝に指定されました。
久保田城の構造
神明山の最高地を本丸とし、藩主の居館である本丸御殿と政務所が置かれました。多聞長屋と板塀に囲まれ、表門・裏門・帯曲輪門・埋門・切戸口の5つの出入口が設けられました。
表門は一ノ門とも呼ばれ、長坂門(二ノ門)が二の丸への手前に存在しました。二の丸は本丸の東側に位置し、勘定所・境目方役所・祈祷所安楽院・時鐘・金蔵・厩などが建てられました。
出入り口は全て二の丸に集約され、松下門・黒門・厩門(不浄門)・土門(北御門)の4つの出入口が設置されました。
それぞれは下中城、上中城、山ノ手、八幡山に通じていました。現在、千秋公園の正面入口となっているのは松下門跡ですが、藩政時代には黒門が正式な登城路として使用されていました。
三の丸は二の丸を囲むように配置され、重臣たちの屋敷が建てられました。東部は上中城、南部は下中城、北東部は山ノ手(手形上町)と呼ばれていました。
また、八幡山の西側(本丸の北西)には八幡宮社殿ではなく、重要な神社である正八幡社(小八幡社)、稲荷社、別当寺金乗院が存在しました。
さらに、八幡山の北側には北の丸があり、大木屋(木材加工所)と籾蔵が建てられました。また、本丸の西側には内外堀に囲まれた西曲輪(捨曲輪)があり、兵具蔵が置かれていました。
本丸と二の丸は内堀で囲まれており(西兵具蔵前堀・南堀・東堀・北堀)、三の丸は外堀で囲まれていました(八幡宮後堀・西兵具蔵外堀・東外堀・南外堀)。
また、北の丸の周囲にも堀が設けられていました(北の丸下堀・北の丸下北の方堀)、大堀は中通廓と亀の町廓・長野下の間に設けられ、上堀は亀の町廓と築地の間に、下堀は亀の町廓と楢山の間に存在しました。これらの多くの堀は、旭川の旧河道を利用していました。
現在ではほとんどが埋め立てられ、一部の南堀、東堀、西兵具蔵外堀(穴門の堀)、南外堀(大手門の堀)が残っています。
城内の機能を持つ本丸・二の丸・北の丸・西曲輪は「一の廓」と呼ばれ、重臣の屋敷が建てられた三の丸は「二の廓」と呼ばれました。
また、中通廓や亀の町には重臣や高禄の家臣の屋敷があり、これら全体を「三の廓」と呼びました。土手や堀を持たない他の侍町は「外廓」と呼ばれました。ただし、この分類は時代によって変遷することがありました。
一門や重臣の屋敷は丸の内に近い広小路や長野町、古川堀反町などに配置され、楢山や保戸野など遠い地域には主に小録の家臣が配置されました。
ただし、重要な場所には重臣も配置されました。町人の居住区域である町人町は「外町」と呼ばれ、城の西側に旭川を挟んで配置されました。
内町は防衛を考慮して屈曲や交差点が多い道路形状となっていましたが、外町は交通の利便性を考慮して格子状に区画されました。また、寺院は外町の更に西側に集中的に配置されていました。